
ショーロは、当初ピアノで演奏されることが多くピアノ譜がたくさん残されています。その綺麗でお洒落な表紙は見るだけでも楽しいものですが、ある日ふとした機会に、この変わったデザインが私の目に飛び込んできたのです。私の抱いていたエルネスト・ナザレーのイメージとは全然結びつかないし、「一体どんな曲かしら?」 興味をもって譜面をめくってみるとヨーロッパ風のピアノ曲の小品といった感じ・・・弾いているうちにすっかりはまってしまいました。全体が実に見事にショーロのリズムを奏でているのです。タリスマンは「お守り」という意味ですが、デザインの絵も何かのお守り?・・・今でも不思議な気持ちで眺めています。それからというもの、どういう風にしてこの曲ができたのか想いを馳せるようになり、ピアノを弾きながら私の想像はどんどんふくれていきました。
エルネストが過ごした地区はリオのシダ-ジ・ノヴァ。ここは、もともとルンドゥやマシーシなど黒人系音楽の盛んなところで、その頃からショーロの本場となり、後世にはサンバ揺籃の地リオにおける都会音楽発展の中心地区となりました。彼の音楽形成に決定的な影響を与えたことは疑いありません。この曲も、きっとこうした雰囲気の中で作り上げられたことでしょう。左手の低音進行は正に七弦ギターの“バイシャリーア baixaria”(低い音)のような動き、中間部はまるでサンバの中で“ヘピーキ repique”(小型のスルド)を叩いている感じです。私は、毎年2月1日〜4日の四日間、彼のためにこの曲を弾くことに決めています。というのも、彼は1934年2月1日ジャカレパグアの森で行方不明となり、3日後の2月4日近くの滝の中で亡くなっているのを発見されたからですが・・・そのとき、あたかも「ショーロの新曲を弾いているかのように両手を直角に曲げたままであった」と伝えられています。
エルネスト・ナザレーは、1863年3月20日リオ・デ・ジャネイロで生
れました。父ヴァスコ・ロレンソは貧しい税官吏でしたが、音楽を愛した母カロリーナは、唯一の財産ともいうべきピアノで幼い彼にレッスンを始めたのでした。彼は才能に恵まれ、特にショパンの音楽については見事なまでの解釈とともに、その作曲技法をすっかり吸収してしまったといわれています。ピアニストとして、また作曲家として名声を高めた彼でしたが、その生涯には悲劇がつきまとっていました。1917年娘マリアに先立たれ、12年後には愛妻テォドールを失った悲しみからか次第に耳が聴こえなくなり、ベートーヴェン的晩年を過ごすことを余儀なくされたのです。
彼が残した作品は凡そ220曲で、そのうち140曲がかなり広く演奏されています。クラシック畑の人と思われるかも知れませんが、その作品の多くは色々な楽器に編曲され歌われていますし、またピアノ演奏でも自由に扱われています。エルネスト・ナザレー・・・・現在でもブラジルで最も愛されている作曲家の一人として、「ブラジルのショパン」の愛称とともに多くの人々に親しまれ、その心の中で生き続けています・・・そうです。私の心の中でも、しっかりと!